写真で見る徳島の昔
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立木写真舘
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1945(昭和20)年7月 眉山の中腹から見た徳島市街  立木真一(立木写真舘 二代目主人)撮影
7月4日の空襲で焼け野原となった徳島市街です。 撮影者・立木真一は、「この故郷の姿は、いま残しておかなければ」との思いで、疎開先から重い写真道具を担いで一人で眉山に登り、乏しい配給のフィルムを使って、一面の焦土と化した徳島市街を四枚の写真に収めました。
1908(明治41)年 阿南の橘湾 1908(明治41)年 古川橋 1920(大正9)年 鳴門
別称・阿波の松島と呼ばれた美しい湾です。 この時代にすでに埋め立ての人工的な直線の海岸線を見ることができます。 現在は、橋はもちろん、水際の形、そして向こう側に見える山影もすっかり変わってしまっています。 どこだかわかりますか?同じポイントで撮影してみてください。
1902(明治35)年 ~ 1903(明治36)年頃
徳島県立徳島高等女学校(現・城東高校)
1909(明治42)年 12月
若林病院看護婦の卒業記念
おそらく全校生徒の写真だと思われます。 明治35年4月の開校時から明治36年1月に初代・佐久間校長が休職されるまでの間に撮影されたものです。 270名もの人数を11列に積み上げるため、写真館の名前入りハッピをまとった人夫が、ヤグラを組んだそうです。 この大仕掛け、最上段の人は恐かったでしょうね。 いかにも「ナイチンゲール」といった風情ですが当時、こんなスカート姿といったら誰もがあこがれる最新ファッションだったのでしょう。 前列右側の方は、足袋に草履をはいていらっしゃいますね。
1909(明治42)年ごろの青年たち 1911(明治44)年頃
正装の徳女(徳島高等女学校)教師たち
何の集合だったのでしょうか。羽織袴にソフト帽、あるいは鳥打帽子といういでたちは、当時の流行だったのかもしれません。 全員、腕組みをするかハカマに手を入れるかして、手を見せていません。 当時の婦人たちは、おしろいを塗った顔に比べて手が黒く写ることを嫌って、撮影の時には手をかくしたそうですが、青年はどうした理由で手をかくしていたのでしょうか。 みなさんスリーピースでキメています。
エリの形や上着の丈から想像すると、前列右3名と後列2名の先生のものはお揃いだったのかも知れません。
1913(大正2)年 7月 1918(大正7)年頃
徳島毎日新聞社主催・県下県立学校及び倶楽部連合野球大会出場者の記念写真。 最前列は徳島県徳島中学校(現・城東高校)のメンバー。 胸にはアルファベットで「TOKUCHU」と書いてあり、運動靴ではなく、地下足袋を履いています。 野球道具も今とは大分違うようです。 立木写真舘応接間での練習に集まった、徳島エンゲル楽団の面々。 第一次世界大戦後、板東町(現・鳴門市)にドイツ人俘虜収容所ができましたが、この俘虜と徳島の人々は、友好的な関係を結んでいました。 立木写真舘二代目・真一は「徳島でもオーケストラを編成しよう」と発案。 さっそく収容所の音楽家パウル・エンゲル氏を指導者に音楽団を組織し、楽器の練習を始めました。 大正7年にはドイツ人俘虜により、徳島の地で日本で初めてベートーベンの第9交響曲が演奏されています。
1918(大正7)年 1940(昭和15)年 4月7日
子供たちも洋服になじみ始めていました。 とは言え、この写真の子供たちの洋服のレース使い、ソックスや靴などを見ると、かなり豊かな家庭の子女だったことがうかがえます。 藤村度器製作所に朝香宮鳩彦王殿下が台臨された、その光栄の日を記念して撮影された所員一同の集合写真。 女性はかっぽう着、男性はそろいの戦時服。 質素な服装が、戦時下を物語っています。
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